2003年11月18日

英国の「二大政党制」。

19世紀から現在まで,ざっとまとめてみました。全然タイムリーじゃないけど。■英国の「二大政党制」は「労働党対保守党」に限定されない
英国の政治が労働党対保守党の図式になったのは、実はそんなに昔ではありません。

労働党ができたのが1906年の12月(それまでは「労働代表委員会(1900年〜)」だった)。労働党内閣が初めて成立したのは,第1次大戦とロシア革命を経た1924年(マクドナルド内閣:マクドナルドは第1次大戦では反戦のスタンスだったそうです)。

つまり労働党は20世紀になって成立した政党で,20世紀の4分の1が経過してからやっと政権をとるほどになった“若い”党です。

■「トーリーとホイッグ」の時代→労働党結党
日本の明治政府が,英国を近代日本のお手本のひとつとした19世紀は,保守党対自由党の二大政党でした(いわゆる「トーリー党とホイッグ党」)。アイルランド問題とか鉄道問題とかいろいろなことで対立していたそうですが,最大の争点は「保護主義か自由主義か」(つまり「国内の生産者保護か,市場開放か」)でした。もちろんその頃はまだ「労働党」はできていませんでした。

さて,手元の歴史年表(吉川弘文館の『世界史年表』)では,1873年ごろが「2党による政党政治の黄金時代」とされています。ということは,「2党による政党政治」はこの頃を境に大きく変動したということです。

1874年の第2次ディズレイリ内閣(保守党)以降,保守党と自由党との争点対立は微妙になり始め(帝国主義の時代),また労働者の権利獲得運動が盛んになり,1883年のフェビアン協会設立,84年の社会主義者同盟(モリスやショーが参加)あたりで社会主義が勢力としてまとまるようになります。これがやがて労働党という政治勢力を結実させます。また,重要なこととして選挙法の改正で,金持ちじゃなくても投票できるようになったことがありますが,それはここではあまりつっこみません。(ただでさえ長い話がさらに長くなるので。)

つまり,労働党という勢力が台頭する萌芽は,保守党と自由党の二大政党の中で,「その2つの政党ではオイラのニーズは満たされない」という人々が参政権を得るようになったことで,育まれたものです。

■「未曾有の危機」「戦争」と二大政党
1929年の大恐慌後に成立したマクドナルド挙国一致内閣(〜35年)は,労働党と自由党と保守党による超党派の連立内閣です。世界恐慌という未曾有の危機に瀕したBritish Empireは,自由主義から保護主義に大きく転換し,ブロック経済を押し進めます。(これを契機に,ほどほどに力のあった国々が「うちもブロック経済やろまいか」と考えるようになったという説明もされています。平たく言えば「スターリング=ブロック」があるんだから「マルク=ブリロック」も「円=ブロック」もあってもいいじゃんという考え方が興ったという説明です。)

1935年以降も挙国一致内閣は続きます。国家の未曾有の危機を乗りきるには,各党の対立を超えなければなりません。二大政党とか言ってられる状況ではありませんでした。1935年のボールドウィン内閣,1937年のチェンバレン内閣はいずれも首相は保守党で,挙国一致内閣でした。

このチェンバレンという人がアドルフ・ヒトラーの恫喝によってドイツを放置したことが第2次大戦につながったとして非難されています。これはまた,「サダム・フセインの大量破壊兵器を放置すれば大変なことになる」という英国政府の主張の裏付けとして利用されました。

1939年,ナチスのポーランド侵攻に対して英仏が宣戦布告し,第2次大戦が始まりました。ドイツからの攻撃が激しさを増す中でチェンバレンと交替して首相となったのがチャーチル(保守党)でした。結果的には英国はドイツに侵略されなかったので,チャーチルは「救国の英雄」となりました。

■「保守党と労働党」の時代
1945年に戦争が終わると,「戦争の顔」だったチャーチルは民主的選挙で支持されず,政権は労働党に移ります(アトリー内閣)。

ここからが「保守党と労働党の二大政党」の始まりです。

1924年のマクドナルド内閣のころは「戦争反対」の立場だった労働党も,第2次大戦を経て変容していました。“鉄のカーテン”(チャーチルの弁)の冷戦時代,党内の反戦派が軍縮や核兵器廃絶・禁止を訴えていたにもかかわらず,労働党政権下の英国は核兵器を保有するようになります。対立していたはずの保守党が核兵器保有を望んでいたのだから,「二大政党」というのが数学の理論のようなものであれば,労働党は核保有はしなかったはずですし,軍備も縮小したはず。でも現実の政治は,数学の理論とは違います。

それでもやはり労働党と保守党ははっきりと対立していました。労働党は社会民主主義政策で動いていたので,国内政策の面ではあれこれ国有化しました(鉄道など)。一方の保守党は私企業にやらせる方がよいという考えです。

戦後,労働党政権で国有化された事業は,1980年代以降のサッチャー〜メイジャーの保守党政権下で次々と民営化されました。

ひところ「英国は“ゆりかごから墓場まで”の福祉国家,高福祉・高負担」=「老成した大国,大人のゆとり」という言説が流行りました。(え? 今でも?) 「福祉国家」云々はサッチャー以前の社会民主主義政府についての評価ではありえても,英国そのものの評価としては的外れです。

■ブレアの労働党
1997年にメイジャーの保守党を破って政権をとったトニー・ブレアの労働党は,自らをニュー・レイバーと定義し,“古臭い”社会民主主義的な方針を捨て,民営化を推進しています。労働党の方針転換は,97年のマニフェストに明記されています。

ここまで来てしまうと,「一体何が『労働党』なのか」がわからなくなります。

それでも97年選挙で国民は「退屈なジョン・メイジャー」を見飽きていて「何かやってくれそうな若いトニー・ブレア」に期待が集まり――2000年から2003年にかけて複数の英国の人に話を聞いたらそう言っていました。つまりは「政策」ではなく「人」で選んだのでしょう。

でも段々とブレアの労働党は輝きを失いました。公共サヴィスの質の低下が毎日ニュースになってました。01年の総選挙(米国の9-11の前)では「この労働党政府を支持するわけではないが,保守党はもっとダメ」で政権を守りましたが,米国の9-11以後の「まるでサッチャー」の路線は「労働党」への失望を巻き起こしもしました。

そしてイラク。世論の過半数が反対を表明していたにもかかわらず,労働党の反戦派とLibDemを合わせたより数が勝っていた労働党のタカ派&保守党によってイラク攻撃が決定され,英国はイラクを不法に侵攻しました。劣化ウランもばらまきました。もちろん人も殺しました。自国の兵士やジャーナリストも死なせました。

大規模戦闘とやらが終結してから,イラク侵攻の根拠とした証拠書類とやらは,まったく信用ならないものだとわかりました。それに関連して,国防省顧問の科学者も死なせました。

「だからイラク攻撃には反対だと言ったじゃないか。それにだいたい英国は物価は高いし治安もよくない。公共サーヴィスの質は最悪で,『物価高で暮らしていけない』という理由で鉄道だの郵便だの消防だの病院だの学校だのでストが起きる。まったくどーなってるんだ。」

それでも「ニュー・レイバー」で「クール・ブリタニア」なブレアのカリスマは,国民の支持を一身に……集めてるわけがない。

一方の保守党も,党首交代劇(あれはほとんどクーデターでしたが)があったりしててしゃきっとしないし,それに何よりまず,彼らはあくまで「保守党」にすぎません。ブレアの労働党に失望した人々の何割が保守党を支持できるのか? とても少ないでしょう。

■「二大政党」のどちらもダメ
労働党もダメ,保守党もダメな場合,選択肢は何になるか?

「労働党もダメ,保守党もダメ」というのは,偉そうな口ぶりにすれば「誰がやっても政治なんか変わらない」と言いかえられるでしょう。

そういう場合どうするか?

ひとつには棄権もあるでしょう。(さしもの英国も投票率下落傾向があるそうです。01年総選挙にて。)

もうひとつは「第3の党」への支持です。

「レイバーもダメ,トーリーもダメ」の意思表示は,カウントされない棄権よりも,確実にカウントされる投票の方が有効であることは,当然です。

実は英国には二大政党以外にも政党がいくつかありますが,最も現実的な選択肢はやはりLibDemでしょう。

LibDemはLabourの無風選挙区での補選でLabourを破って議席を獲得する(参考)など,「支持をのばしている」という調子の記事が今最も多い政党です。

トニー・ブレアが「前の人と違って何かやってくれそう」で旋風を巻き起こしたように,チャールズ・ケネディが「今の状況を変えるための何かを変えてくれそう」で支持を得ることも十二分にありえます。

というわけで,こちらの記事もお読みください。
posted by nofrills at 04:17| two_party_system | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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