2003年12月13日

ことばをつかうこと。

私が自分のサイト内の1コーナーとしてtoday's news from UKを始めたのは2001年2月。それまで掲示板で話のネタ程度に時々「こんな記事あったよ」みたいに書きこんでいたものを,無料のレンタル日記のスペースを借りて,独立させた。

なぜ英国なのかというと,サイトのテーマが「英国(イギリス)」だから。また,英国のニュースが日本で報じられる機会が相対的に見て少ないから。さらに,私は英国という場所に興味があるからである。ひょっとしたらそれはフランスだったかもしれないしブラジルだったかもしれない。

自分が読んでない記事のことは伝えられないし,そもそも記事になってないことはわからないけれど,自分にできる範囲で,そして自分の「楽しみ」(好奇心を満たすことは楽しい)のためにやり始めたものだ。私は政治にはほとんど関心がなかったし(でも一応社会科学と人文科学を合わせたようなことをやっていたから,「無関心」というわけではない),政治的意図などカケラもなく始めたことだ。それでもしかし,時には(件数は1ケタですが)「あなたは意図的に誘導しようとしている」と私を非難する(としか読解できない)メールをもらうこともあった。

そう見える,いやむしろ,そう見えてしまうことを,コントロールすることは私にできるのだろうか。

その点で,私が金科玉条としていることばがある。

「なるほど,そういう見方もできるんですね。」

これは,デレク・ジャーマンがインタビューの中で,インタビュアーから「私はこういうふうに見ました」と言われたときに発していることばである。続けてデレク・ジャーマンは「私はそれはまったく考えていなかったけれど」とした上で,インタビュアーとことばを交わし続ける。

今,私は記憶に頼って書いているので,デレク・ジャーマンの言ったことをそのまま再現しているわけではない。10年も(!)経っているのだから,デレク・ジャーマンの言ったことは私の中で私に合うように変容して収まっていると思う。

ほとんどもう「子曰く」な状態だが,ジャーマンは「作り手が解釈までをコントロールすることはできない」という考え,もしくは態度を,彼のことばで語る。私はこれにひどく共感した。

例えば私は肉は食べない。しかし私がそう言うと,私が肉食を辞めようという“思想”の持ち主だと思われることが多かった。私が肉を食べない理由は,ただ単に「味が嫌いだから」であるにもかかわらず。

私が肉を食べないのは,ある少年がニンジンを食べないのと同じことなのに,“思想”だと解釈されてしまう。「ニンジンを食べない“思想”」があればいいのに!

私はこれをコントロールしようとして,肉が苦手なんですとか,ごめんね,肉はちょっと,と言うたびに,「味が嫌いで」と言い沿える。

ところが同時に,私は根が怠惰なので,「ヴェジタリアン」という言葉を簡単に使う。英国に旅行に行って,宿の朝ご飯を頼む時に,no bacon, no sausages, pleaseと言ったらvegetarianなのね,と言われたことがきっかけだ。長々と肉製品を列挙しなくても,vegetarianと言うだけで,魔法のように,私の皿の上から肉が排除される!

これがクセになり,「ヴェジタリアン」を無感覚に使ってそのことばの恩恵にあやかるうち,“思想”を担ったvegetarianということばが,私の日常の語彙となる。それも自分を説明するための。

本物のヴェジ(英国人)にこの話をした時,so you are a psuedo-vegetarianだと笑われた。(そのあとはありとあらゆるものにpsuedo-という接頭辞をつける言葉遊び大会になった。でも壊れた掃除機をpsuedo-hooverと呼ぶのは「変」らしい。ex-hooverと呼ぶべきだと。あ,hooverは「掃除機」のことです。)

しかし,B&Bの朝ご飯で「ベーコンもソーセージもいらない」と言いたい時にI am a psuedo-vegetarianと言ってもわけわかんないだけだろうから,やっぱりvegetarianと言う。そう言う時,私が達成したい目的はただひとつ,「私の皿の上からの肉の排除」であり,それを言う相手(B&Bのスタッフ)と人間的なつながりを求めているわけではない。だから私に“思想”があると思われたって別に構わない。

しかし,世間一般では(「世間一般」という四字熟語もわけわかんないんだけど),「あんなにおいしいものを食べないなんて,よほどの“思想”なんだろう」ということになっていて,私がそれを「あんなにおいしい」と感じてない(「思って」ではなく「感じて」である)ことは,いちいち説明しなければならない。

以下の2パラグラフは,説明のために極端に単純化して示すものである。すべての事象がこの2つのパターンのいずれかで生じるわけではない。

肉食べないんです,味が嫌いなんですヨ,と言うと,なんだー,私はニンジンが嫌いなんですヨ,特に生のヤツとか,許せないですネ,あれを「野菜スティック」って呼ぶのは詐欺ですヨ,みたいにして,相手が自分のことを語る。あるいは,私も肉食べないんです,やはり肉食はいけませんネ,地球に優しくないです,ということもある。

肉食べないんですヨ,とだけ言うと,そーなんですか,え,それは何か考えがあるのですか,みたいにして,相手は私のこと(むしろ私のウラ)を知りたがる。あるいはそーなんですか,だけで沈黙してしまうこともある。あるいは,そーなんですか,じゃあ焼き鳥屋には行けないですねぇ,どういうところで飲むんですか,と話題が変わってしまうこともある。

デレク・ジャーマンがことばに拠らない表現者(ことばも使っているけれど)である一方で,私は主にことばに拠ってなにごとかを表現している(私のやってる程度のことをそう呼ぶのであれば)。そして,ことばに拠る表現は,表現者がある程度はコントロールすることができる。

そうである以上,ことばを使う時には覚悟を決めなければならない。「私はこんなことが言いたいのではない」ということがあれば,それをはっきりと書いておかねばならない。弁解がましくなろうと長くなろうと,書いておかねばならない。「そう見ることもできますね」の一方で,そう見られることを予防しようとしている。矛盾だらけだが,そうせずにはいられない。

それでも時には,想定すらしていなかったようなことで勝手に深読みされて(←とても悪意のある言い方をあえてします),何ら生産的でもなんでもない非難を浴びせられたこともあるし,「あなたの先入観を撒き散らすな」と,どこがどう何だということを書いていない(どの記事についてのものなのかすら書いてない)1行メッセージをいただくこともあった。

人は先入観から自由になれるのか,一切の先入観を持たず,絶対的に中立・公正であることなど可能なのか,これを考えてみても,私には「そんなことはできない」という結論しか出てこないし,それを前提にしなければ自分で書くことも他人の書いたものを読むこともできなくなってしまう。私はそう思っているしそう考えている。

最近,我にあらず(笑),“政治的”になっているのは,そのことについて考えているからであり,特定の主義主張に誘導するためではない。

初心にかえることもまた,必要なのかもしれない。でもそれは,私の内面の問題であり,このスペースに書くことには反映されないかもしれない。
posted by nofrills at 18:12| about_this_blog | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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