2004年06月26日

「残虐だから」

DoXさんのウェブログを読んで考えこんでしまった。こんなことが書かれていた。
後ろに写ってる本は以前ポプラ社(かいけつゾロリ)がらみで紹介した「ぼくの見た戦争」だけど、俺が上げて甥1が学校に「お薦め本」として持って行ったら、一人の先生が問題にして職員会議になったらしい。
「残虐な写真があるから」だって。
DoXさんは続けてこう書いている。
でも、中学校の推薦図書になってて、誰でも買えるよな。
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残虐な行為を黙認しておいて「人道支援」とか言い募って、「残虐だから見るな」って言うのは、ちょっとおかしいんでないかな?とか思う次第です。


「残虐な」という形容詞(いや,形容動詞か,日本語的には)のもとにひとくくりにされるもの,そして厳重に封をされて引き出しの奥に押しこまれ,かぎをかけられるもの。

「残虐だから見せないほうが無難だろう」の末尾が取れて「残虐だから見せない」になるとき,見せられなくなるのはその写真だけじゃない。

まあ特に,今回の「戦争」と呼ばれるものについてのことだけど,この「戦争」で「残虐」な写真がいっぱいいっぱい撮影されているのはなぜなのか,それを考えなければ,見せるのもはばかられる「残虐」なんてものがあり続けていくことになるんじゃないのか?と思う。

「残虐」をなくすことが,「残虐」を見せない最上の方法である……なんちゃって。

現に,見せるのもはばかられる「残虐」はほとんど見えないところで行われてる。2004年3月までのファルージャしかり(今でも見えづらいことは確かだが,注目されたから多少は見えるようになった),イラクのあちこちにある「ファルージャ」しかり(バスラ,ナシリヤ,ナジャフなどでとても「激しい戦闘」があった),むろんパレスチナしかり,チェチェンしかり,かつての北アイルランドしかり(モンティ・パイソンでアイルランド人をおちょくったギャグで英国人がゲバゲバ笑ってたときに,ベルファストでは社会的・法的差別構造の中で,ブリティッシュがアイリッシュのことをさんざんに扱っていた)。スーダンは今このときもとてもひどいようで,そのことを書いた友人のメールを読んで,私はどうしたらいいのかほんとにわかんなくなってしまった。

再度,「残虐(残酷)だから見せない(見せたくない)」について。いや,「〜したくない」は意見・考え・主張であって,「〜ない」とはびみょ〜に異なる。でもあえて一緒くたにする。

昨年5月1日の「大規模戦闘終結宣言」後に,日テレでイラク戦争報道をめぐる特集番組があった。(日テレのあの「戦争」の報道は,私は各局のなかで一番頻繁に見ていたと思う。)その番組で,日テレの夕方のニュースで死体の映像を流したことについて,視聴者からの意見として「子どもも見ている時間帯に残酷なものは流さないでほしい」というようなものが紹介された。

強烈な違和感。

残酷なものを見て子どもがびっくりする,おびえる,ということはわかる。私も小学生のときに実写の映画『はだしのゲン』を見せられたときにはこわかった,昼でもトイレに行けなくなった,ひとりになれなくなった。でもそれがなかったらその後の自分は違ってただろうっていうくらい,たくさんの考えるヒントを与えてもらった。こわい体験を共有した人たち(私の場合は学校の同窓生たち)と話をして,こわいという感情とかあんなのはいやだという感情とか,いろんなもやもやを整理することができた。そういう方法はこれだけじゃなくていろんな場面で会得してきていると思うけれど(そしてそれがカンペキにできるってことは多分ずっとないのだろうけど),でもこの体験はやっぱ大きかったと思う。

※別に「こういうことすればキレる子どもがいなくなる」とか言いたいわけではないのでそこのところよろしく。

そうやって,自分の知らないところ,私とは関係のないところで起きてることを考えることってのはどういうことかを,私は何となく流されながら与えられるままに会得してきたような気がする。

まとまらねぇな。
posted by nofrills at 15:04| i_dont_think_i_am_a_pacifist/words_at_war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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