2004年10月10日

訃報:ジャック・デリダ

Quo vadis, domine?さんで「デリダ死去」を知り,反射的にBBCを開く……あった。

http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3729844.stmBBCの記事なんか読んだってしょうがない。

おたおたと,ガーディアンでderridaで検索すると,出てくる記事で最も日付の新しいのは今年9月25日のもの,エドワード・サイード一周忌の記事だ。

おたおたしているので,とりあえず,Google Newsでの検索を。

というか,自分が何をおたおたしているのかわからない。ぶっちゃけ「読んでもわかりませんでした」としか言えない書物トップ5だった,私には。

書いてることが意味不明だ。

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■追記(10月11日)
asahi.comの死亡記事を改めて見て,「ジャック・デリダさん」の「さん」に,強烈な,喉の焼けるような違和感を覚える。

自分にとって,ミシェル・フーコーがフーコーさんであったことはないし,ロラン・バルトがバルトさんであったこともない。エドワード・サイードしかり,ノーム・チョムスキーしかり,スーザン・ソンタグしかり,……。だけどカート・コバーンのときは「さん」でも違和感なかったなぁ。(っていうかあのときはんなこと考えてるヒマもなく,ただその記事に書かれてることに「やっぱり」と思って愕然としただけだった。)

「デリダ」でウェブログを検索してみると,そりゃもうたくさんの人たちがこのことについて書いている。

私が大学を卒業して会社員をしていたときに,ロンドンのある大学のある学部でデリダが時々レクチャーしてるということを知り,「生デリダ!」が単純にうらやましかったことを思い出した。

私はデリダの書いたことを日本語で読んでまったくわからなくて,英語で読んでまだわからなくて,フランス語のを見せてもらってわかる……わけなかった。

読んでもわからないけど,聞けばわかるかもしれない。「生デリダ」へのうらやましさはそこから発する。言葉は書かれたものであるだけでなく,話されるものでもある。書かれたものを読んでいてもいつまでたってもバクゼンとしている場合,音声だとある一瞬,すっとカミソリで切られるような感覚がすることが,時々だが,ある。

デリダについての映画の一節をあとで見てみようと思う。(この映画のことは,このウェブログを使い始める前に使ってたところにちょこっと書いた記憶がある。)

だが,そんなこともあんなこともこんなことも,当人が死んだ後になって追悼めいた気持ちでやっててもしょうがないな,と思う。

私たちが積極的に情報を得ようとするとき,それが自分の関心事でもない限りは,だいたいが「何かあったとき」だ。

ともあれ,外国語(などという言い方も,実は私はすんなりと使えるわけではないのだが――「外」と「内」の対立が根底にある言い方だから)の文章を,どこかの誰かが,日本語で読めるようにしてくれているというのは本当にありがたいものだ。

Le Mondeの死亡記事(AFP)有村悠さんのウェブログで,また,今年8月に掲載されたLe Mondeのインタビュー蕩尽伝説さん(9月22日〜26日)で読める。(死亡記事はだいたい定型にはまっているから辞書さえあれば何とか読めるのだが,インタビューはまったく歯が立たない。)アメリカ独立宣言論は後で読みたい。

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■追記2:
2001年9月,WTC崩壊のすぐ後に,デリダはインタビューに答えて次のように言っている(南ドイツ新聞,9月24日)。
【問】9月11日のテロについてどうお考えですか。
【答】この襲撃によってわたしたちは、グローバリゼーションの問題に、そしてこれまで受け継いできた戦争という概念の問題に、あらためて直面する結果となりました。それも考えられないほど残酷な形で。いかなる国民国家にも宣戦を布告せず、特定できる相手のいない戦争とは、そもそもどのようなものなのでしょうか。そしてこの戦争は巨大な資本の移動を伴うもので、襲撃の直前に先物市場の投機で、巨大な利益が得られていることが伝えられています。これらのすべてからみても、わたしたちはグローバリゼーションについて、資本主義と戦争について、あらたに考え直すことを強いられているのです。



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■追記3:
11日午後になってから,ガーディアンのオビチュアリを,やっと読みました。Le Mondeよりも詳しい。Derek Attridge and Thomas Baldwinという署名あり。
http://books.guardian.co.uk/obituaries/story/
0,11617,1324460,00.html

某超大国の某大新聞のオビチュアリとは異なり,ポール・ド・マン云々は書かれてない。(さっきもカミール・パーリアの激しく言いっぱなし系の文章をちらと見たが。)どんな感じか,ちょっと引用しておくと,
Searle criticised Derrida for misrepresenting Austin (which in some respects he did), but the American, not appreciating the function of Derrida's playful style, equally misrepresented the Frenchman, who responded by writing an even more outrageous rejoinder. What might have been a valuable dialogue between Derrida and analytical philosophy of language led nowhere.

※太字は私がつけた。ガーディアンでございます,って感じられてならない。
posted by nofrills at 03:32| todays_news_from_uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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