2005年05月16日

だいたい1年前に日本語にしたもの――The Shia Rise Up

そう,去年の今頃,キーパーソンは「ヨルダン出身の凶悪なテロリスト」ではなく,「南部の名家の出である若くラディカルなイスラム法学者」だった――ムクタダ・アル=サドル。

軍事作戦に加え,米英はプロパガンダ戦争を開始した。スンニ派の蜂起には,一握りのバース党員や外国のイスラミストによるものだとレッテルを貼り,米英はシーア派へと注意を向けた。彼らを「ならず者」だとか「犯罪者」だとか呼んだ上に(こういう呼び方は,占領に抵抗する人々に対する標準的な蔑称である),サドルとその支持者たちは,イラクにイスラム国家を樹立したがっているイランの工作員である,と私たちは聞いている。
Michael Ledeen や Michael Rubinといったネオ・コンサーヴァティヴたちが,これらのうそを広める最前線にいる。こういった主張は,イランでのレジーム・チェンジを狙う彼らのキャンペーンに役立つし,イスラムを,暴力的で非民主的で女性を蔑視し,全体的に不寛容な宗教であるというように描くことにも寄与する。ルービンは,最近までCPAで仕事をしていたが,イラン人がシーア派各勢力のすべてを資金面で,また武器供与で支援してきたと主張している――アル=サドルだけではなく,ダーワ党やSCIRIをも。
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このプロパガンダが,占領連合諸国(米国,英国,イタリアなど)の市民に消費されるよう意図されていることは明白だ。イラク人に向けられたものではないのだ。残念ながら,これは,特に米国では反戦運動にも影響を及ぼしている。戦争に反対した人々の多くが,占領軍を即時撤退させるよう働きかけることに戸惑いを示している。なぜならば「内戦が起こり,そして,あるいは,イスラミストがイラクを手に入れる」という言説があるからだ。
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   ※全文はリンク先で読んでください。


で,2005年4月末……イラクの「民主的選挙で選ばれた」首相は誰だか知ってる?



Dawa Partyっていうのは:
ダーワ党(別名:アル・ダーワ・アル・イスラミヤ):シーア派ではおそらく最古の政党で,1950年代終わりにナジャフで始まった。イスラムの政治的・経済的哲学を発展させたシーア派聖職者のサイイド・ムハンマド・バーキル・アル=サドル(Sayyid Mohammed Baqr Al-Sadr:ムクタダ・アル=サドルの大おじにあたる)の理念に触発されて始まった。明確にイスラム政党であるが,方向性と政策の決定においてアラブ・イラクのアイデンティティがより大きな役割を果たすこともある。
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例えば,1980年代初め,ダーワ党員と指導者のほとんどがイランへ追放されたときには,彼らは上部団体のSCIRIに加わった。しかしSCIRIがイランへの依存を深め,イランからの指示で動くようになると,ダーワ党の多くはイランとのつながりを断ち切るよう主張し始めた。イラン−イラク戦争(1980〜88年)が修復不能な不和を生み,イラクのナショナリスト一派はSCIRIを脱退した。
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ダーワ党はレバノンのシーア派コミュニティ,およびその指導的聖職者,サイエド・ムハンマド・ハッサン・ファドラー(Sayed Mohamed Hassan Fadlallah)との関係を深めてきた。この関係を通じ,ダーワ党はイランの宗教家支配(wilayat al faqih)をイスラム共和国のモデルとすることを否定するようになった。
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ダーワ党は米国の軍事介入に反対していた。イラク人は自分たちでサダムを追放すべきであると言っていた。しかし,ほかの多くの組織と同様,ひとたび戦争が終わると,ダーワ党は統治評議会(GC)に加わることに合意した。シャリーア(厳格なイスラム法)についてのダーワ党の見解は,昨年1年の間に変わったようである。イラクの多民族・多宗教という性質を認めているようである。党の中でもリベラルで主導的な一派の指導者,イブラヒム・アル・ジャファーリ(Ibrahim Al Jaafari)は,イスラム国家は民主的選挙を通じて可決されねばならないと述べている。


※例の民兵組織バドル旅団を抱えているのは,SCIRIであってダアワ党ではありません。

Riverbend: 12 February 2005
 現在のバグダードがいい例だ。いま大学で勢力をもっている政党は、ダーワやSCIRIなどのイラン寄りシーア・グループだ。学生の代表たちは今ではほとんどこれらの政党に属していて、キリスト教、イスラム教いずれの女子学生たちに対してもこれを着てはいけない、あれを着ろとうるさく嫌がらせを行っている。彼らは学生たちを「ラトミヤ」(預言者の家族の殺害を嘆いて泣き叫び自らを打つ、主にシーア派で行われる宗教行事)に参加するよう勧誘し、カフェテリアにたむろしている学生に、ラマダンの間は音楽をやるな、代わりにラトミヤとアヤトラ某やサイード某の説教をやれと脅している。
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 先週、いとこは高等教育省に行く用事があった。もとの建物が焼かれ略奪された後、職員は市内のほかの場所にあるとんでもなく小さな建物に引っ越さなくてはならなかった。いとこの妻が教育省発行の学位証明を必要としたのだが、いとこはどうやっていいのかよくわからなかった。それで、私が一緒に行ってやることにしたのだ。私自身問い合わせたいことがあったし。
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 私たちは高等教育省職員の入っている(が、まだ大臣は入ったことのない)建物へ向かった。小さな狭苦しいところだった。一部屋に8人ずつで、重苦しい雰囲気だった。受付には髭のおとこがいて、私たちをうさんくさそうにじろじろ見た。「ダーワチ」といとこはそっとささやいて、男がダーワ党の人間だと教えてくれた。この人に聞けばいいのかしら? どの係に行きたいって言えばいいのかしら? 省が発行する証明書をもらいにきたんです。私は不安を押し殺して大きな声で言った。彼はちらと私をみて、みよがしにいとこの方に向き直った。いとこは用件を繰り返し、どこへ行けばいいか聞いた。この階の部屋のひとつに行って聞けと言われた。
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「こんど来るときは適切な服装をして下さい」。その男が言った。私は、自分の着ているものを眺めた。黒いパンツ、ベージュのハイネック・セーター、膝丈の黒いコート。何ですって? 私は怒りで真っ赤になった。つまり、頭を被いスカートをはけと言っているのだ。よその男どもにあれを着ろこれを着るなと言われたくない。「私はここの職員ではありません。服装規程に従う必要はないわ」怒りを抑えて答えた。いとこは成り行きが気に食わないようだった。怒って間に入って言った。「われわれは1時間ほどここにいるだけだ。あんたがどうのこうの言う筋合いはない」
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 「筋合いはある」。声が返ってきた。「ここで働いている人間にちっとは敬意を払うべきじゃないのかね」。ここで会話は終わった。私はあたりを見回して、敬意を払うべき人々を探した。職員らしい女性が3,4人いた。そのうち2人は長いスカート、ゆったりしたセーターを着て、頭にはスカーフをかぶっていた。3人目は性根が入っていた。完璧なジュッバ(たっぷりした長衣)姿で頭には黒いスカーフを被っていた。いとこと私が受付の男が示した部屋へ入ろうとしたとき、私は目がちくちくと痛かった。戦争前、あんな口をきく人間はいなかった。そんなことを言われて、黙って聞いていなくてもよかった。言い返せたのだ。だが今、言い返したり問題にできるのは、死んでもいいと思っているか、何よりトラブルが好きという人だけだ。
posted by nofrills at 14:57| voices_from_iraq | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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