2005年08月23日

ベルファストのArdoyne地区,そして『見ることの塩』

ベルファスト北部,Ardoyne Road/Alliance Avenueのエリアで,日曜日の午後10時ごろ,ロイヤリストとナショナリストの衝突が発生した。

Rival groups clash in city riot
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/4172246.stm
※ガーディアン/オブザーヴァーも見てみたが,当該の記事なし。

100名ほどの若者による投石 (missile)などで多くの一般家屋の窓が割れ,その後衝突は商店街に場を移した。警察が出動し,地域のリーダーらと連携を取って,深夜1時ごろ,暴動は収まった。

この暴動の前日の土曜日にも,ベルファスト東部において,およそ400名のナショナリストとロイヤリストとの間で数時間にわたる騒ぎが発生していた。

――というのがBBC記事に書かれている事実関係。記事にはこのほか,シン・フェイン党のカウンシラーのコメントが記載されている。この前にArdoyneがニュースになったのは,この7月のOrange Order paradeのときのことだ。1690年にオレンジ公ウィリアム(プロテスタント)がイングランド国王のジェームズ2世(イングランド王室最後のカトリックの王)を破った戦いを記念するプロテスタントのマーチが,住民の8割以上がカトリックというこの地区を通ることになった,というニュース。

結果は――暴動発生。(ついでながら,このときの暴動についての記述で一番爆笑したのがオブザーヴァーに掲載されたヘンリー・マクドナルドの論説。「暴れてたのはローティーンじゃないか,親は何をやってるんだ親は」と批判する記述がハイライト。この暴動のroot causeはそこじゃないだろう……パセティックだよほんとに。そうやってほんとに何がどうなのかを直視せず,なんかわっかりやすいことを拾ってみても何にもならないのにね。)

今回の騒ぎは,おそらく7月のオレンジ・パレードのことがどっかにつながっているはずだ。「あいつら許せん」的感情であれ何であれ。

Ardoyneというエリアは,これまでにもいろいろな出来事があったのだが,とにもかくにも地図を見るのが何よりわかりやすい。CAIN(北アイルランド資料集)の地図の一覧から,ベルファストの宗教分布図。(下記はCAINのgif画像に横幅などを調整する加工を施したもの。なおこの地図画像はパブリック・ドメインに入っている。)

ardoyne.jpg

カトリック(ナショナリスト)が80%以上を占めるArdoyneのすぐ南が,プロテスタント(ロイヤリスト)が80%以上を占めるCrumlinとShankill,そしてそのすぐ南は,カトリックが80%を占めるFallsである。また,この数値は1991年の国勢調査に基づく。

Ardoyneは,上掲の地図を見ても分かるとおり,ベルファスト西部のそのほかの緑エリアと違って,緑としての空間的連続性を持たない。まるで飛び地のように,Shankillなど強烈なロイヤリスト地区(ロイヤリストの武装組織の本部とかがここにあったりするのだが)の向こうにある。

そしてこの地区は,緑な人々とオレンジな人々との目に見える境界線がないがゆえに――ベルファストのほかのエリアでは,両者を分かつ「壁」(→別記事に書く)が存在しているところもあるのだが――「住民同士の衝突」が多発してきた。

一例として,3 September, 2001のBBC記事
There are few more obvious signs of sectarian division than the scene that greets you at Ardoyne Road, north Belfast. Irish tricolours fly from lampposts starting at the southern end of the road.
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A few yards past an invisible border at Alliance Avenue, the green is replaced by the orange and loyalist flags flutter in the breeze.
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Ardoyne, an "interface" area where Protestant and a much larger Catholic communities live cheek by jowl, has witnessed some of the worst violence of the Troubles: Mass movements of people, open street fighting, clashes with security forces, shootings and intimidation.
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High levels of unemployment persist and this epicentre of the Troubles remains a fertile recruiting ground for paramilitaries.
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...


この地区は多数のカトリックと少数のプロテスタントが混住している。そのカトリックの子供たちの通う小学校は,プロテスタントが居住する区域にある。

2000年,この小学校がプロテスタントに包囲され,通学する学童が石を投げつけられるなどの事態となり,それがきっかけで大人同士の暴動に近いことになった。BBC記事にある住民の証言によると,Ardoyne地区で騒動がひどくなったのは,90年代終わりにUDA(ロイヤリストの武装組織のひとつ)がこの地区に入ってきてからだという。

Fear, Mobility and Living in the Ardoyne and Upper Ardoyne Communitiesという調査がCAINにある。(リンク先はサマリー。全文はこちら。)

全文の方のTable 9に興味深い項目がある。Have You Worked in a Place Dominated by the Other Religion(もう一方の宗教が主流である場所に職場があったことがありますか)という質問に対し,Ardoyne住民の74.1%が「はい」と回答し,Would Your[sic] Work in a Place Peopled by the Other Religion(もう一方の宗教の人がほとんどの場所で働きたいと思いますか)という質問に対しては68.8%が「はい」と回答している。

「カトリックかプロテスタントか」なんて,本当は,そんなに大きな問題じゃない。一方で,それを大きな問題と考える人たちも確かにいて,そういった人たちは武器を持っていて,あるいは武器になりそうなものは何でも投げるということに一切のためらいがなくて,そして「カトリック野郎」に暴力を加えたりする。妄想だった「溝」はこうやって現実になる。

なかば必然的に思い出したのが,「セルビア人とアルバニア人」である。先日見たNHKのドキュメンタリーが強烈だったのだろう。(このNHKのドキュメンタリー『コソボ・隣人たちの戦争“憎しみの通り”の6年』は,23日の深夜に再放送される。)

四方田犬彦さんが,昨年10月から12月にかけて,セルビア・モンテネグロとコソヴォに滞在したときのことを綴った著書『見ることの塩』(2005年,作品社)を,昨日読了したばかりだ。

この書籍で,コソヴォのミトロヴィツァの「猫の額ほどの」セルビア人地区を訪れた著者が人々と話したことが書かれている部分を読みながら,ぽかーっと頭に浮かんできたのはベルファストの地図だった。(私はミトロヴィツァの地図は見たこともない。それどころか,コソヴォの詳しい地図だって見たことはないと思う。)

 別の家では、高校の英語教師と話す機会があった。町が南北に分断されるまで、彼女は南側の市場の向こうにある高校まで歩いて通っていた。……昔からミトロヴィツァではアルバニア人もセルビア人も仲よく暮らしてきたというのに、どうしてこんなことになってしまったのか、いまだに理由がわからないと、彼女はいった。……
 食事が終わってお茶が出るようになった頃、わたしは「そういえばこんなものがありますよ」といって、国連軍が製作した町の地図の複写を鞄から取り出してみた。居合わせた人々の何人かが驚きの目とともに、それに見入った。……高校教師は苦心して細かな活字を読み取ると、そのひとつひとつの母音と子音の結合を懐かしげに舌先に乗せてみるのだった。それらは彼女がかつて教鞭をとっていた南側の高校へと通じている通りの名前だった。わたしたちが食卓を囲んでいるその家から一キロも離れていないというのに、彼女はそこを訪れることが永遠にできなくなってしまったのだ。
 「ああ、あの路地の名前はハイドゥク・ヴェリコヴァといったんだ、わたしは毎日歩いていたのに、あの道に名前があることさえ考えたことがなかった」と彼女はいうと、しばらく黙りこんだ。……
――四方田犬彦、『見ることの塩――パレスチナ・セルビア紀行』、2005年8月、作品社


引用箇所の「高校教師」はセルビア人,「南側」はアルバニア人地区である。

少なくともベルファストのArdoyneでは,「そこを訪れることが永遠にできなくなってしまった」ということにはなっていない。目に見える境界線があるわけではないし(2000年から2001年にかけて襲撃がひどかったころに,「壁」を求める声もあったのだが),境界線を軍隊が管理しているわけでもない。けれども起きていることは基本的には同じことだ――ただしベルファストでは,1969年ごろには既にコミュニティは分断されていて,それから35年以上が経過している。それでも人々は分断されていない――完全には。そして,そこにやって来て「分断祭り」をする連中は確実にいる。

ときどき考えることがある。自分自身が徒歩であれ自転車であれ公共交通機関であれ,日常生活の中で移動したいと思える場所に何の障害もなく行けること,そして帰ってこられることは,実はものすごく幸いなことなのではないか。(むろん,「夜はここは通らないようにしよう」という場所もあるが,それは分断とかとは関係ない。私はここ東京での日常生活の中で自分の民族的アイデンティティを常に意識していないし,ましてやそれによって行動を制限したりはしていない。そしてそれは,ただ単に,自分の民族的アイデンティティが「外部」にはないからだけかもしれない。)

私がベルファストに行ってもおそらく,移動にはほとんど何の障害もないだろう。私はそこでは「外国人訪問者」でしかない。行かない場所があるとしたら,それは自分が行かないことを選択した結果,行かないだけのことだろう。

それはおそらく「フリーダム」あるいは「リバティ」と呼ばれるものの一部だ。

でも,そこにルーツを持って住んでる人たちにとっては,そういうものがない土地というのがあって,それはベルファストでありミトロヴィツァであり,あるいはイラクのいくつかの都市や町もそうなりつつあるのかもしれない。

自分はとても恵まれたところにいるけれど,「憎しみの連鎖」とかいうマスコミの常套句を超えたところにあるものを見ようとすることだけは,やめたくない。
posted by nofrills at 01:51| todays_news_from_uk/northern_ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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