2005年08月27日

訃報:Gerry Fitt, former SDLP leader

August 26, 2005
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Gerry Fitt 1926-2005
Sadly today we mark the passing of one of Northern Ireland's more substantial figures.
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Jimmy Sands @ 26 August 2005 03:02 PM
--http://www.sluggerotoole.com/archives/2005/08/gerry_fitt_1926.php


最近訃報ばかり書いてるような気がする。先月はテッド・ヒースが亡くなり,つい1週間前にはモー・モーラムが亡くなったが,今度はIRAを批判し続けたソーシャリスト,SDLPのジェリー・フィットが。

First SDLP leader Lord Fitt dies
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/4187408.stm

Obituary : Lord Fitt of Bell's Hill
http://www.guardian.co.uk/Northern_Ireland/Story/0,2763,1557558,00.html

SDLP,すなわちSocial Democratic and Labour Partyは北アイルランドのナショナリスト(カトリック側)の政党。党の設立は1973年で,設立時の党代表がGerry Fittだった。

Gerry Fittはベルファスト生まれ。カトリックのコミュニティであるFalls地区で暮らしていたが(彼の住居はかつてはJames Connollyが住んでいた家だったそうだ),住居が焼き討ちにあい(それも1度ではない),もう何年も,イングランドのロンドンで暮らしていた。長く心臓疾患を抱えていたが,8月26日に死去。享年79。

IRAの活動のせいもあって「北アイルランドのナショナリスト側と言えばシン・フェイン」というイメージが出来上がっているけれども,実は2001年までカトリックを代表していた(最大の支持を得ていた)のはシン・フェインじゃなくてSDLPだった。北アイルランドのナショナリスト政党はややこしい。SDLPは,党名にある通りソーシャリストというのであれば話は比較的簡単になるのだが,北アイルランドの場合,ナショナリズムかユニオニズムかというより大きな区分が大前提になり,さらにナショナリズム側においては政治参加の方法についてや「武装闘争」の是非などで二分されていて,どちらもマルキシズムが根底にある。マルキシズムに基づいて論点を「階級闘争」とし,ナショナリズムとユニオニズムの垣根を超えようという動きをした人たちもいる。さらにアイルランド共和国(南)の政党との関連もある。

という具合だが,大雑把には,統一アイルランド達成のための武装闘争を是としたのがSinn Fein,そうでないのがSDLPである。Sinn Fein自体が1970年にOfficialとProvisionalに分かれ(その直前にOfficial IRAとPIRAの分派があったのだが),Provosの方はその後だいたいそのまま現在に至り(今「シン・フェイン」と呼ばれているのはこのProvisional Sinn Feinである),Officialの方は1974年に再度分裂して,武装組織INLAと政党IRSPを生じさせている。

一方のSDLPは,党の名前とかは1973年の設立以来変化はない。元々が「ナショナリストでベースはジェイムズ・コノリーだが,シン・フェインではない」という人たちの連合体みたいなもので(<多分),シン・フェインみたいにひとつの確固たる主義主張に基づいたもの(ある意味で理想主義)だったというわけでもなく,武装闘争じゃなくて平和的手段でと考え,(英国からの完全独立とまでいかずとも当面は)英国内の北アイルランドでのナショナリスト/カトリックの政治参加を求め続けていることに変化はない。

政党がややこしくなるのは,政治がややこしいからだ。司馬遼太郎はアイルランドを訪れて著した恐ろしく情緒的で表面的な紀行文で「アイルランドは二律的である」と断定していたが(しかもどうしようもないことに,政治には興味はないとして北は度外視すると述べた上で――実際あの時期に北に気軽に観光に行けたとは思わないが――,政治的なことをも語り,「反英闘争」を情緒的に“正しいもの”とし,自分の見つけたステレオタイプを拾って歩いたようなセレブ観光客の紀行文なのだが),そんなことはない。確かに大前提となることは二律的かもしれない。しかし具体的にどうすべきと考えるかについては,決して二律的ではない。「敵の敵は味方」は確かに一面では現実である。が,SDLPはIRAに襲撃され,同時にIRAの最大の敵であるロイヤリストから敵視され,そして北アイルランドのカトリックの間で最大の支持を得ていた――2001年までは。「敵」と「味方」の二項対立はここにはない。もっと複雑だ。

SDLP設立時のことを,wikipediaの記事を書いた人が簡潔にまとめてくれている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Social_Democratic_and_Labour_Party
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The party was founded in the early 1970s. It was formed by former members of the Republican Labour Party - a fragment of the Irish Labour Party, the National Democrats, a small social democratic nationalist party, individual nationalists and members of the Northern Ireland Labour Party. The SDLP initially rejected the Nationalist Party's policy of abstensionism and sought to fight for civil rights within the Stormont system. The SDLP, though, quickly came to the view that Stormont was unreformable and withdrew from the Parliament of Northern Ireland.

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1970年代初めに,Republican Labour Partyなどのメンバーによって党設立。SDLPは当初,the Nationalist Partyのabstensionismを拒絶し,ストーモント体制の中で公民権を求めようとしていた。しかしほどなくストーモントは変えようがないという見解に至り,the Parliament of Northern Ireland(=ストーモント)から手を引いた。


abstensionism(不参加主義)というのは,一種の「ボイコット」と言ってもよいのではないかと思うのですが,議席を得ても出席しないというやり方。「ストーモント体制」は当時の北アイルランド自治議会のもとの体制のことで,この議会からはカトリック側は締め出されていた(人口に応じた選挙区割ではなかった)。公正な選挙制度を通じてこの議会へ参加することを求めたのが,北アイルランドのカトリックたちの「公民権運動」。(……「簡潔に」まとめていてくれているけれども,部外者が理解するのは簡単にとはいかないわね。)

バックグラウンドとしては,1960年代終わりの「公民権運動」の盛り上がりとそれに対する弾圧(1968年10月,ジェリー・フィットは,デモをするための法的権利すらカトリックには与えられていなかった中でデリーでの公民権デモに参加し,警官隊にボコボコにされた。このときの映像はBBCの特集ページから見ることができる),1969年の英軍駐留開始,1970年のInternment(治安当局による「容疑者」の法的手続きをすっとばした拘束・拘留と「5つの手法」すなわち拷問による尋問)導入,1972年1月30日のブラッディ・サンデー,その後のPIRAへの支持の増加,北アイルランド議会(ストーモント)のサスペンション,1973年のサニングデール合意(ユニオニスト,ナショナリスト両者のパワーシェアリングを合意したが,ユニオニスト政党が合意から離脱したりユニオニスト過激派が暴力的なストを決行したりで枠組みそのものが74年5月に瓦解。これを「奴らは何としてでもナショナリストを締め出したいのだ」という考え方がますます説得力を持つようになり,IRA支持者が増加)。

その中で,IRAの武装闘争を否定し,議会への不参加主義を否定し,ナショナリスト/カトリックが議会に参加することを求めて,1973年にSDLPを立ち上げた政治家たちのひとりがジェリー・フィットである。

IRAはSDLPの政治家を何度か襲撃しているが,当然のことながら,ジェリー・フィットも襲撃されている。

1979年までSDLPの党首を務めた彼は,1980年に離党した。その経緯について,wikipediaには次のように書かれている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Fitt
He became a target for republican sympathisers in 1976 when they attacked his home. He became disillusioned with the handling of Northern Ireland by the British government. In 1979 he abstained from a crucial vote in the House of Commons which brought down the Labour government, citing the way that the government had failed to help the nationalist population and tried to form a deal with the Ulster Unionist Party.
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In 1980 he was replaced by John Hume as leader of the SDLP and he left the party altogether after he had agreed to constitutional talks with British Secretary of State Humphrey Atkins without any provision for an 'Irish dimension' and had then seen his decision overturned by the SDLP party conference.

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1976年にリパブリカン(<武装闘争してる人たちをこう呼ぶことが多い)支持者によってフィットの自宅は襲撃された。英国政府による北アイルランドの扱いに幻滅するようになったフィットは1979年に下院(当時彼は英国下院の議員だった)での内閣不信任決議案採決を欠席(この不信任決議案は1票差で可決され,労働党のキャラハン首相の内閣は総辞職,続く選挙で勝利したのがマーガレット・サッチャー率いる保守党:この不信任決議についてのバックグラウンドはWinter of Discontentを参照)。このときフィットは,英国政府はナショナリストを助けるはずだったのに,UUPとの取引をしようとしているのだと述べた。1980年,英国の北アイルランド担当大臣と会談を行なうことに合意したがSDLPはジョン・ヒュームを党首とし,フィットは党首から降りただけでなく党籍をも抜けた。このときフィットは英国の北アイルランド担当大臣と交渉を行なったが,北アイルランドの位置づけについてのその交渉の内容がSDLPの党大会で批判を浴びた。(後半はwikipediaの記述ではあまりにわかりづらいので別の資料を参照して日本語のまとめを作成した。)


フィットは,1981年のロング・ケッシュ(メイズ)刑務所でのハンストに反対した。(ロング・ケッシュで服役していたリパブリカン武装闘争活動家のハンストは2度行なわれている。1980年の10月,政治犯としての待遇を英国政府に要求したハンストが1度目。政府はいったんはこれに応じたがハンスト終了で元の木阿弥となった。1981年3月に2度目のハンストが行なわれ,ボビー・サンズら10人が餓死した。これがリパブリカンにおいてはシンボリックなものとなった。このハンストをめぐっては。アンチ武装闘争のナショナリストは,「IRAの戦略で10人が殺された」というように考えている。)

しかしこのハンストはシン・フェインにとっては大きな追い風となった。ボビー・サンズは殉教者のように扱われた。(「サンズ」という名字はアイリッシュではないが,実際ボビーの祖父はプロテスタントだった。その彼が,IRAの理念に「殉じた」ことが持つ意味は,とてつもなく大きかっただろう――ただし当時の人々が,ボビー・サンズのバックグラウンドがmixedであることを認識していたかどうかは私にははっきりとはわからない。)

1983年,英下院の総選挙の際,フィットの選挙区にはSDLPの候補者が立った――「刺客」か?(笑) そしてフィットは落選した。がSDLPの候補も落選した。当選したのはシン・フェインの党首となったジェリー・アダムズだった。(アダムズが党首になるまで,シン・フェインの拠点は南にあった。ベルファストのアダムズが党首になったことは,シン・フェインにとって大きな転換点であった――北アイルランドにとっても。)

選挙の翌月,フィットは英国によって一代貴族の地位を与えられ,ロンドンに移った。フィットの自宅はIRAシンパに襲撃された。一代貴族となったフィットは英上院議員として北アイルランドの政治に関わり続けた――このことについての評価はさまざまである。

いずれにせよ,1973年のサニングデール合意で失敗した「ユニオニストとナショナリストが共同で参画する北アイルランド政府」は,1998年のグッドフライデー合意(ベルファスト合意)で実現に一歩近づいた――「IRAの武装解除」があるまではパワーシェアリングに応じないとするユニオニスト勢力があるから,難航しているが。

このグッドフライデー合意で最も主導的な役割を担ったのが,ジョン・ヒュームのSDLPである。


ジェリー・フィットの死を報じるBBC記事には,SDLPの現在の代表であるマーク・ダーカン,北アイルランド担当大臣のピーター・ヘイン,アイルランド共和国のバーティ・アハーン首相,DUPのイアン・ペイズリー(引用されている言葉が形式的なお悔やみの言葉だけで,実際にどう考えているのかは不明),UUPのダニー・ケネディらの「訃報に接して」の言葉が掲載されている。シン・フェインからの言葉は,掲載されていない。

ベルファスト・テレグラフニハジェリー・アダムズの言葉が掲載されているが,「ご遺族のみなさまにはお悔やみを」と「さまざまな相違点がありそれらは根深いものであったが今はそれを語るときではない」というもので,あまり中身はない。ベルファスト・テレグラフ記事の白眉は,イアン・ペイズリーが最後にロード・フィットに会ったときの回想と,UUPの副党首だったジョン・テイラーのコメントである。(ベル・テレはロイヤリスト/ユニオニストの新聞だからね。)

ベル・テレはほかにも記事がある。
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/story.jsp?story=658733
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/story.jsp?story=658732
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/story.jsp?story=658731

北アイルランドは,暴力がなかったら(どちら側のものもね),ここまで悪化してなかったとつくづく思う。

Gerard Fitt, Baron Fitt, of Bell's Hill in the County of Down
9 April 1926 - 26 August 2005

※彼が貴族となったのは,上述したように一代貴族に叙せられたためであり,彼自身のバックグラウンドはワーキングクラスである。
posted by nofrills at 23:34| todays_news_from_uk/northern_ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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